❝バロン薩摩❞こと薩摩治郎八とは・・・

雑学(雑談)

以前、❝ウオール街の魔女❞と題して、たった一人で2億ドルも貯めたと言われる超ドケチ根性の女性❝ヘテイ・グリーン❞の話をご紹介しました。

本日はそれ(ドケチ根性の女性)とは⁉正反対の人生を送った豪快な日本人の話をご紹介致します。

その名は、❝バロン薩摩❞こと薩摩治郎八(さつま じろはちバロン☞貴族の称号あるいは爵位の一種。)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E6%B2%BB%E9%83%8E%E5%85%AB

治郎八の祖父の治兵衛は近江の貧農の出身だったが、明治の初めに横浜で木綿織物で大成功し、木綿王と呼ばれるほどの財をなした。治郎八が生まれた頃は明治の富豪26人の1人に数えられたそうです。

治郎八は大正9年(1920年)、19歳の時に英国に留学。

その時の仕送りは月に1万円

当時のサラリーマンの給料は30円というから、それを基準に考えれば現在の1億円くらいに相当する。

治郎八はこのお金を車と女に使います。

治郎八は家業を番頭に任せて、2年後の1922年(大正11年)に、当時の好景気を背景に隆盛を極めていたフランスのパリに向かう。

そこで本格的に金を使い始めます。ジャン・コクトー(仏の芸術家)、レイモン・ラデイゲ(仏の詩人・小説家)らの文豪と交際し、日本からパリにいた洋画家の海老原喜之助、岡鹿之助、オペラ歌手の藤原義江などのパトロン(財政支援者になります

豪快な女遊びと桁外れの散財で、パリの社交界のスターになり、

爵位がないにも関わらずバロン・サツマ(薩摩男爵)と呼ばれた。

<<パリで10年間で使った金は現代の貨幣価値に直すと約600億円!!!>>

彼はもちろん浪費もしましたが、前述の様に美術や音楽、更には演劇などの文化公園には惜しげもなく金を使いました。当時、フランス政府が各国に留学生のための宿泊研修施設の建設を呼びかけましたが、日本政府は資金不足を理由に断りましたが、治郎八は全額出資しこれを建てた。

治郎八は1926年(大正15年)に26歳の時一時日本に帰国して千代と結婚する。

その後二人でフランスに渡仏。

相手は山田英夫伯爵の娘千代で彼女は(松平容保の五男の娘)としていわば当時でいうお姫様。
千代
出典:http://silvermoon2010.blog27.fc2.com/blog-entry-187.html
その容姿から藤田嗣治には「ドーリー」と呼ばれた。

そして当時としては珍しく日本人離れした容姿で若く美貌も財力もある夫婦として社交界ではひと際
目立つ存在として注目された。

渡仏当時はふっくらとした裕福な日本女性特有の女性だった千代が既に渡仏してフランス社交界の
花形として名を馳せていたバロン氏の指導によりドレスの着こなし、美容、ダイエットを指導して
どんんどん洗練した女性に変化していったと言う。
千代
出典:http://blog.livedoor.jp/mukashi_no/archives/48603933.html

その類まれな美貌と若さと財力でパリっ子の注目を集めた千代は当時のフランスファッション雑誌ミネルヴァの表紙を務めたり、エクセルシオールの夏のモード特集などでもモデルとなる治郎八共々華やかなパリの華と言われたそうです。

だがその夫婦生活もそれほど長くは続かず千代は1956年(昭和31年)に42才の若さで結核となり亡くなっている。

バロン薩摩の晩年とは

フランスでの放蕩生活を支えてくれた実家の「薩摩屋」はバロン薩摩の建設した「日本館」開館後の5カ月後のNY株式市場の株の大暴落による世界恐慌の波にのまれて1935年に崩壊。

一家の残した財産や土地も敗戦後の連合国軍による農地改革などで全て没収され人手に渡り薩摩屋は没落。

治郎八は40代半ばでとうとう無一文になった。

しかし、その後あらゆる人脈を使って作家としても活躍して自身のパリでの社交界での生活や巴里会などにも参加して暮らしを成り立たせていたとの事。

最後の妻は浅草のストリップダンサーとして働く秋月ひとみ(利子夫人)で二回り以上も年下と再婚してパリから帰国後再婚。

帰国後3年の1959年(昭和34年)妻の故郷徳島での祭りで阿波踊りを踊る最中に脳卒中となり1976年昭和51年)に享年75歳で脳卒中から17年後に死去している。

今も最期を過ごした妻の故郷の徳島にバロン薩摩の墓があるとのこと。

今の感覚で言えば、バカな浪費と見えるかも知れない治郎八の浪費。当時のパリで活躍していた日本人の芸術を支援したことは、どれだけ日本の芸術が開花したかわからないと言われる程の貢献だったと言われています。

 

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