日本とパラオの深い絆

雑学(雑談)

友人に誘って頂き、靖国神社のとある会館にて❝池間哲郎先生❞の講演に参加してきた。

日本とパラオとの関係は以前ある番組で見て感動したことを覚えていたが、改めて俺たちはこの様な日本人がいたことを知らなくてはいけない!そう感じた講演でしたので、ここにご紹介致します。

~パラオの歴史~
16世紀頃より、スペイン人が初めて渡来し、次いでポルトガル人、イギリス人がやってきました。そして、1885年にスペインが侵略してきて植民地下になりました。その後ドイツに売却されてまた植民地となりました
これらのヨーロッパ人により天然痘などが持ち込まれ、また現地人に対する搾取や虐殺が行われた結果、パラオ人の人口は90%も減少したといわれています。

90%なんて、驚きですよね( ;∀;)

第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは、1920年、日本が統治しました。この時からパラオは、植民地ではなく、日本国の一部になったのです。

日本統治時代のパラオ

パラオ人たちは、今度は日本人に支配されて、また虐殺されると思っていたそうです。

ところが、日本が来ると生活が豊かになりました。電気や水道が引かれ、病院も建設されました。1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させていきました。

また、日本人はパラオ人に土木・建築などの技術指導を行い、工場が建設されて産業も発達しました。さらに、パラオの人々は教育を受けることが出来るようになりました。そして、パラオの人々は日本人と一緒に平和に暮らしました。

旧日本軍司令部跡

~第二次世界大戦中~

パラオのペリリュー島は、戦死に残る激しい戦闘の舞台となりました。フィリピンが近くにあるので、アメリカはこの島を落としにかかり、日本軍の数百倍の兵器と、圧倒的な数の兵士を送り込んで来たのです。

この時のペリリュー島において、現地のパラオの人々と日本人兵士との、心の絆に関する深い逸話❞があります。

この地にアメリカ軍が乗り込んで来ると判ったときに、パラオの代表者数名が、中川州男大佐を訪ねてきました。彼らは「自分たちは死ぬ覚悟は出来ているから、日本兵と一緒にアメリカと戦わせて欲しい」と言ったのです。

ところが、中川大佐は激高してこう叫びました。「誇り高き帝国軍人が、貴様ら土人なんぞと共に戦うことができるか!出て行け!!」と。

その言葉を聞いた島民たちは裏切られたと思いました。日本人は心の友だと思っていたのに、やはり本心では自分たちを見下していたのだ、と思ったそうです。
そして、ペリリュー島のパラオ人たちは全員船に乗せられて、非戦闘地域に疎開させらることになりました。パラオの島民たちが船に乗り込む時になって、日本軍の兵士は誰一人として見送りに来ない……、島民たちは愕然としました。

ところが、その船が岸から離れたとたんに、日本兵の全員が砂浜に一斉にどっと走って出てきたのです。彼らは、島民たちが全員船に乗るのを隠れて確認していたのでした。そして、日本兵たちは皆で手を振りながら、島民と一緒に歌った日本の歌を歌い出したのです。涙を流していた者もいました。
その先頭には、あの中川大佐の姿がありました。
その時、島民たちは、あの「土人」という言葉は、自分たちを殺さないためにわざと言ったのだということを悟り、号泣したのです。

この話を聞いたとき涙がとめどもなく流れてきます・・・

日本軍が抵抗に利用した千人洞窟

その後、ペリリュー島で戦った日本兵は玉砕し、中川大佐は自決。パラオ人に犠牲者は一人も出ませんでした。

パラオの国旗
パラオの国旗は日本の日の丸をモチーフにしたデザインと言われております。デザインは国民投票で選ばれ、青い海原に満月です。日本の国に敬意を表し、日本の国旗が太陽ならば、パラオの国旗は月を現したものなのです。
パラオの月は、中心よりも少しずれた位置に描かれています。
この月が真中にあるとあまりにも日本の日の丸に似すぎていて畏れ多いので、少し左に寄せたのだといいます。
パラオの方々の親日は今も強く日本人に対してとても温かく迎えてくれるそうです。
https://youtu.be/cTRfPNEPR-A

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